父親には一匹狼の部分もあっていいと考えている。

子供はおそらくほとんどいないでしょう。

そうすることによって、次第に欲望を統制する力が養われてきましたし、三カ月後には、落ちつきを取り戻すことができたのです。友達と遊ぶ時間もふえ、戸外でもよく遊ぶようになったのです子どもが要求するものですからという言葉は、子どもの自発性を尊重するように思えますが、実は自分本位のわがままな心を育てているのです。自発性を育てることとわがままを認めることとは全くちがいます。自発性を育てるということが、わがままをゆるすことになったら、教育上の大きな誤りです。
両親そろってあるいは片親であってもどんなに親

自発性にとって、それが育つ場は、遊びの場です。稽古事は、大人の作ったものや大人が考え出したものを子どもに押しつけることが多いので、自発性を育てることとは程遠いものであることが少なくありません。しかもやりたいと言ったからといってそれを幾つもやらせることは、経済的にしまりのない、自分本位な心を養っていることになるのです。
稽古事は楽しみのためにでは、稽古事を何のためにやらせるのか、その点の検討から始めてみる必要があります。
多くの母親は、将来何か自分で楽しむことのできる趣味として、稽古事をさせておこうと思うでしょう。それによって人生をゆたかに送ることができるし、情操を育てることにも役立つと思うでしょう。あるいは、その道で大成し、名をあげてくれれば!とひそかに思うかも知れません。あるいは、友達が始めたから、いっしょに-という場合もあるでしょう。よその母親に誘われたからという例もあります。その場合にも、それが子どもの何かに役立つと考えてのことでしょう。
一つの教養になるかも知れませんある両親が相談に来ました。ピアノを買おうと思うがどうだろうかと言うのです。その理由をきいてみますと、子どもに習わせたいと思うし一台ぐらいはあってもいいと思うのでということでした。

母親がよく

  • 子どもは非行に走らない俗
  • 子どもたちが欲しいと言って
  • 学習について


母さんなりのひとことを言ってもらいたいのです。


勉強して何になるの?

これは、文化的な家庭としてのアクセサリーの意味で考えているのでしょう。家庭の経済的なレベルが高くなると、このようにピアノが先に持ち込まれて、そして稽古をさせるということもあるのです。
稽古事をさせる意味は、自分なりに楽しむことのできる趣味を持つことにあります。それを他人とともに楽しむことができれば、さらに楽しさは増すでしょう。芸術を楽しむとは、情操を育てるという意味で大切なことですし、それが友達といっしょであれば、社会性の発達にもよいでしょう。
ところが、稽古事に通い始めてみますと、楽しむどころではなくなってしまう場合が少なくありません。宿題を出されるからです。次のときまで、これだけのことをやっておいて下さいと言われ、それをやっていかないと叱られます。
大学へ行く

子供に身をもつて覚えさせてほしいものです。

母親がつき添って行った場合には、それを母親に言われますから、教えるという宿題を母親もまた与えられたことになります。そこで、幼稚園や学校から帰ってくると、時間をきめて練習することになりますしかし、子どもには、練習よりも遊びたい気持のときが多々あります。そこで、怠け始めます。そうなると、母親は何とかして子どもに練習させようとするでしょう。子どもをつかまえて、練習を強要するでしょう。母親にも宿題があるし、いっしょに始めた友達に遅れをとるのも残念です。ここに、母親と子どもとの間の葛藤が始まるのです。けんかごしに練習をしているという状態が起きてきます。楽しいどころではなく、母子間の情緒的
関係の喪失さえ起きるのです。
情操教育とは逆の教育が行われているのです。


成績を維持しているのです。

成長をどんなに妨げてき

一度始めたものは、やめないで!という気持が母親に強くなることもありましょう。
子どもがいやだと言ったからといって、すぐにやめさせるのでは、意志の弱い子どもにしてしまうのではないかという心配もあります。そこで、子どものお尻を叩いても練習させようとするでしょう。子どもの方では、練習と聞くと、暗い気持になるのです。
どうしてこのような家庭悲劇が起きるのでしょうか。それは、稽古事の先生の中に子どもの心理について知らない人が少なくないからです。自分が大人になって身につけた技術教育をそのまま子どもに当てはめようとするから、子どもの心理や生活全体のことを無視した宿題を出すのです。
子どもの意識に大まじめに働き


高校ま戦前は付属

そのような先生は、1日に1分でも11分でも多く練習すれば、それだけ上手になる-と単純に考えています。そのようにして練習に励めば、才能が輝き出るようにも言うでしょう。量的に積み重ねれば、質的にもよくなるという--ことに単純な論法です。たしかに、そのような経過の中で、才能が輝き出た子どもがあるかも知れません。しかし、そのような例があっても何万人の中の一、二人です。多くの子どもは、途中でいやになって挫折してしまっています。
これもまとくに小学校に入ると、ほかの勉強もあります。それ以上に、友達と遊ぶことに熱中します。そして、意欲も社会性も伸びていくのです。母親とさんざんにけんかをして、とうとう稽古事をやめてしまったという子どもが何と多いことでしょう。しかし、それでよかった-ということも言えるのです。子どもの全体としての発達からみれば、稽古事に通うことよりも、もっと大切な遊びがあります。