父親のその厳

子どもに本を読ませたいと話す

この習慣も、感冒の流行時には、伝染病を媒介する結果になってしまいます。あいさつの形も、このような保健上の観点から検討してみなければなりません。
おじぎは長い間の日本の慣習であり、衛生学的には清潔ですから、それを残したいという気持もあるでしょう。そうなれば、心を入れかえるより他にはありません。すなわち相手によっておじぎの角度が変わらないような人格にまで自分を高める努力です。そうなると、両親自身が、相手によっておじぎの角度をかえるようなことをしてはなりません家庭の中でも、お父さんとお母さんとの間で、あいさつの仕方がちがっているのでは、子どもに示しがつきません。学校においても、校長先生と一般の先生の間で差のあるおじぎをしたり、子どもたちに対する先生のおじぎが高くてはならないはずですこうした点で、現在の日本を考えてみますと、民主的になったとはいえ、大人たちの心の奥には、まだまだ封建時代における差別の意識が残っていることに気付くでしょう。

いじめの側に回子どもが小さい頃に親が離婚してそのような意識の両親や教師が、子どもの教育を担当しているようでは、子どもに民主的な教育をすることは不可能です。形を教え込みながら、古い時代の教育をしてしまっているということになるのです。
子どもの内面のよさを見抜いたしつけをそこで、われわれ大人が、本当に、個人を大切にし、男女の間の差別や、社会的地位に
よる差別がないかどうかを、おじぎを中心として検討してみる必要があると思います。そこから出発しなければ、本当の教育は行われずに、形を整えることばかりに走ってしまい幼い子どもの場合にはそれが成功しても、思春期以後になると、大きく反発する人間になってしまうでしょう食事中や来客中の行儀にしても、同様のことが言えます。行儀がよいということが、内面的な発達と結びつかない限り、それは、人からほめられたいという利己的な意識のみであり、他人への思いやりからではありません。

 

先生ごめんなさい。

他人とともにいて、相手の心になごやかな気持を与えるということに行儀の意味があるとすれば、自分が相手にどう思われるかということではなくて、相手に対する思いやりから出発する作法でなければならないのです。
三人の息子さんを持つお年寄りが、入院中に私に言っていたことです。それぞれの嫁が病院に見舞に来るのですが、長男と三男の嫁は時間通りに来て、あれこれと見舞ってくれて、行儀もきちっとはしているのだが、何となしにぴったりしないところが次男の嫁は来たり来なかったりで、だらしないところがあるし、行儀もよくないが、ぴたっとしたものが感ぜられる。それが何だろうか-という質問でした。思いやりというのは、結局は相手の気持を汲んで感じることであり、それが行動になって出てくるときには、確かに形式もあるが、そうでない行動に現れてくることがしばしばあるのではないでしょうかと私はお答えしたのです。このお年寄りは、相手の心の動きを汲む力があったから、このような質問をされたと思うのですが、形式的なことに重きをおくお年寄りであったなら次男の嫁はだらしがない-と言って非難したかも知れません。相手の気持を汲む力が育っているかどうかで、その人に対する評価は非常にちがってしまいます。子どもの叫び両親も、教師も、うっかりしていると、形式的な行動の美しさにただし偽物に心を奪われて、内面的な心の動きを見抜く力を失ってしまいます。
その点で、子どもには、非常にそれを感ずる心があるのです。あるお母さんは、子どもの友達の中に、乱暴で粗野で、とかくほかの家庭では毛嫌いされている子がよく遊びに来るのが気になっていました。とうとうある日、そのことを子どもに話したそうです。と,ろが、子どもから返ってきた答は、あの子、とてもやさしいところがあるんだよというものでありました。
ある幼稚園で、消極的な男の子がボスにいじめられ、それが問題になったことがありました。そのボスは、何かにつけて暴力を働くのです。そこで母親を呼んでいっしょに話し合うことにしました。

    1. しつけようとするのは安易な考えでしょう。
    1. 子どもにとってよい教師であるかどう
    1. 子どもが望まない

母親はよく言いたがるがもし余力があれば何

母親は全然、思いやりのない子で……と言ってわが子を非難し謝罪しようとしたのですが、担任の保育者は、あの子には、とてもやさしい面がある
だから、子どもたちはいじめられても、にくんではいないと言い、その子のやさしい面についてお母さんに話してきかせました。その話を聞いて、母親の心もすっかり変わボス君を受け入れることができるようになるとともに、その子の攻撃的行動も落ちついたのですつまり、母親自身に思いやりができて、自分の子どものよさを見る目が育つと、子どもの行動が非常に変わってくることが少なくないし、それがいかに大切であるかを物語っていますところが、形式的なしつけが多いと、どうしてもそれに心が奪われて、子どもの内面のよさを見抜く目を失ってしまいます。
いじめられていて

子どもの頃から体は小さく

ボス君は、すぐれた担任によって、内面のよさがきちっと見抜かれていたことが、非常に大きな支えとなって、本当によい子になるきっかけを得たのだと思います。
とかく、しつけは、口やかましく言うことで終ってしまいがちです。子どもには子どもの心があり、発達がありますから、すぐには形が整いません。形が整わないのが子どもなのです。ですから、形式的なしつけの手本を示しながら、いつも、内面がきちっと育っていくように努力することが必要です。
家族エゴイズムが子どもをだめにするまず大人たちがよい見本を公衆道徳とは、どのような道徳をいうのでしょうか。公衆のいる場所は家庭外でありますから、道路であるとか公園であるとか、乗物の中のことが頭に浮かぷでしょう。


子どもが小さい頃に親が離婚して 父親のその厳 両親そろってあるいは片親であってもどんなに親